月色相冠

vii / Deutzia crenata

「……えと」 二人を前に座った紗藍は、少し困った顔をしている。 早稲がいたのと同じく板張りの、しかしそう広くはない部屋だ。屋敷の角に位置するために二方が大きく庭に面し、明るい日差しが紙の衝立ごしに屋内を照らしている。 結麻は、自分の部屋——…

vi / Juglans ailantifolia

 度会の屋敷が見えてくるよりもかなり手前で、結麻は走るのをやめていた。同じ方に向かう知人に会ったからだ。結麻は彼も同じような状況にあることを聞き、胸をなで下ろした。自分の心配は杞憂だったのかもしれないな、と思えたので。 彼は名前を連理《れん…

v / Veronica persica

 家々の灯りが消え始めるころ、薄曇りの夜空を見上げ、紗藍はため息をついた。 彼女のそばには、座った彼女を守るように赤い竜が寝そべっている。家の勢力をそのまま形にしてみせたような大きな自分の家の縁側で、彼女はもう一度息を吐くと、炎遙の固い鱗を…

iii / Chloranthus japonicus

 結麻は、決めたとおりにした。 周囲は当然、良い顔をしなかった。この集落で竜は通常、人に飼われる。だから人の姿を取らせることは主たる人間が、そうさせなければならない理由があるときに限って「許す」ことだった。 結麻が今ひとりで暮らしている家は…

ii / Zelkova serrata

 岩場の上に砂がたまってできたこの島は土壌が痩せていて、木々もさほど勢いよくは育たない。だから結麻と「扉」とを中央に迎えた石敷きの場所も、そこが特別な場所として整備されたのはかなり前であるのに、周りの木々の幹はそれほど太っていなかった。 枝…

i / Linum usitatissimum

 ぐるりを一日かけずとも歩けてしまえそうなその島には、集落がひとつあるだけだ。かつて小舟数隻でたどり着いたある部族が、今もひっそりと暮らしている。 岸から岩場を抜けると、まばらに草が生える砂地を通り、踏み固められた道が進んでいく。その脇にぽ…

月色相冠 / sage

〈だからこそ我々は、それを求めてしまうのだね〉 とある島に暮らす竜使いの一族に生まれた結麻は、その父が遺した「扉」で一柱の竜を喚び出す。 人と竜との「ふつう」の関係に軽やかに反逆していく彼女の姿は、彼女の大事なひととものとを少しずつ変えてし…

12 おかえり

 ネコは飛び起きた。耳元で大きな声を出されたからだ。彼は振り向き、そこに立っていたのが誰かわかると肩をすくめた。相手もまた同じ格好をしてから彼を覗き込んだ。耳にかけていた髪が一束、細く前に落ちた。「おはよう。帰る時間だよ」「マスター」 フリ…

11 「忘れないで」

「思ったよりも早かった」。それがアスタルテが最期に思ったことだった。 彼女は薄れゆく意識の中でベッドが血に染まるのを見ながら、自らの命が尽きる前に、ネコを自らとの契約から解き放った。 ケレトはこの時間、いつものように自宅で、母のいる病室へ行…

10 ある愛のはなし

 少年の遺体は秘密裏に処理された。埋葬されたかどうかはわからない。彼には遺体を引き渡すべき縁者がいなかったし、そもそも当局はそんな連絡先など聞いてさえいなかったからだ。 それはつまり、アスタルテが彼を生かしていたとしても、彼がそのままこの建…

9 このいとしき子ら

 それから数年。クレイオが押し通した方針は、今はしっかりと光明を捉えていた。 彼が仕立ててネコに渡した試作品は、確かに当初の目的に照らせば失敗作だった。しかし、それはそれで用途があるのである。ネコ――あの、ツンと澄ましていながら実は興味を抑…

8 アスタルテ

「アスタルテ」、シリアルナンバーとして「Wi-02083-f」を割り振られたキャリアは、戦線にほど近い某国郊外の製造工場で、完成体となった直後に廃棄が決定された個体だった。 彼女の情動値は基準を上回っており、それはオーナーの操作性を悪くする…