アルモニカ

この世界には『竜』がいる——紫の目の人間たちは、彼らと結んで奇跡を起こす。

そんな神官見習いの少年を幼馴染みに持つ王女ルーシェは、ひょんなことからとある騎士が遺した機密の綴られた本を手にする。
病の運び手として疎まれる放浪の民、本を求めて暗躍する者、死せる騎士、言霊を統べる竜、さらにはルーシェ自身のルーツ。
本を巡っての〈調べもの〉は、たくさんのものを巻き込みながらも、さる国の企てへと集約していく。

完結済みです。


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序章

  • あるネズミの最期

     ひと気のない国境地帯だ。乾いた風がまばらな草を撫でていく。 荒れ地の端を縁取るように始まる茂みのそばで馬を降りた女性は、同行者をそこに残したまま低木に歩み寄り、それが落とす影の少し手前で、黄色がかった土の上に膝をついた。 彼女の前にはその…

第1章

  • 1 / 耳飾りと占い師

     ユーレ王家に双子の跡取りが生まれてから、風の民がやってくるのはこれが初めてだ。王女らたち六歳を迎えていた。 ふたりの誕生の数年前までは、ユーレは隣国アドラとの間で緊張関係にあり、国境にはものものしい警備が張られていたため、風の民はすぐそば…

  • 2 / ナイトと少年

     フォルセティ・コンベルサティオ——ルーシェとレヴィオ、それから彼の親族には「フィー」と呼ばれていたその少年は本来なら、当たり前の顔をして王宮にいるような立場ではない。彼の父母は日中留守が多く、そのため彼が同居の老人に面倒を見てもらっていた…

  • 3 / サプレマの報告

     翌日、国境地帯から戻ってきた女性は同行者と別れると、赤と黒で彩られた衣装を翻し、ひとりその足で王宮へ向かった。 ユーレの首都グライトは坂の多い町だ。砂色のレンガを積み上げて作った建物の隙間も同じように砂色で踏み固められ、あるいは石が敷かれ…

  • 4 / 風の民

     国境を越えて少しのところで足止めされていた風の民は、解放令が発されてすぐ移動を開始した。彼らには、保存食の没収のほか何らの制約も課されることはなかった。しかし彼らは自主的に、余計な疑念を抱かせぬためにか、一切の食料の提供を自粛することにし…

  • 5 / シルキアーテ

     まだ明るい時間、王宮をこっそり抜け出たルーシェは、風の民がテントを張っている広場のほぼ中心に来た。鼻をくすぐる良い匂いこそしないものの、人々の声や夜に向けた準備の音で賑やかなその場所で彼女はあの占い師を探したが、見当たらなかった。名前を聞…

  • 6 / クレアリット

     フォルセティの家は大所帯だ。しかし彼にはきょうだいがあるわけではないし、父母以外の親族の同居もない。居候が多いのである。 普段こそ人間の姿をしているものの、人には持ち得ない力を使い、あるいはそれを主に分け与えつつ、歳も取らない。そういう居…

  • 7 / 水面に嘘を、剣に真を

     広場の中央に張られた大きなテントは、ほかとは違って天蓋だけがあるもので、その下には舞台があり、周りを観客が立ち見で囲むようになっている。とは言ってもおよそ「出し物」自体ならあちこちで見られるので、ここで行われるのは中でも集客の見込めるもの…

  • 8 / 水よりも濃く

     テントの前でクレタと別れ、ルーシェとフォルセティとは広場を離れて王宮への帰路についた。 後ろの賑やかな音が徐々に薄れていき、周囲は次第に普段の町の姿を取り戻す。ごく普通の夜は、静かな明かりが運河の水面をゆるく照らしていた。「ねえ」 ルーシ…

  • 9 / 端緒

     フォルセティの母親(つまり最初、国境地帯に調査に出向いたサプレマ)は、ルーシェを王宮まで送ると言って出ていき、帰ってくるなり台所に現れ行動に出た息子を、手を拭きながら苦々しい顔で見つめた。 彼女の前ではフォルセティが、さきほど風の民の足元…

第2章

  • 1 / 母と娘

     その晩ルーシェは女王の執務が終わる頃を見計らい、その私室へ向かった。 そこにはまだ女王はおらず、主の戻りを待つ部屋のカーテンも開いたまま紫の夜空を見せている。ルーシェ外を覗いてからカーテンを引くと、部屋をもう一度横切り、扉のすぐそばに置か…

  • 2 / 冷たい廊下

     母の部屋を離れ、石造りの壁に小さな火が点々と灯された薄暗い廊下を歩きながら、ルーシェははたと我に返った。 よく考えてみれば、彼女が母の部屋に行った目的——アルファンネルに会ったことを伝えることは叶ったものの、母がそれをどう思ったかは全く聞…

  • 3 / 真実と、褪せたインク

     ルーシェはしかし、侵入者の名を明かさなかった。彼女は調査を始めた王宮警護官に対し、侵入者は若い女だったがそれ以上はわからないとだけ答えると、口を閉ざしてしまった。 大人に任せたほうが良いことは、頭ではわかっていた。しかしルーシェはシルカの…

  • 4 / 忠誠のナイト

     現女王デュートが幼少の頃「フィー」と呼んでいた男——フォルセティ=トロイエ・グリトニルは、もとはと言えばデュートが語ったとおり、まだ子をなしていなかった頃の前国王夫妻が寵愛していた子どもだった。その名は夫妻、イスタエフとアルファンネルとが…

  • 5 / 裏と表

     シルカのテントはその日は千客万来で、彼女は仕事を始めてからというものほとんどずっと、覗き込んだ水盤から顔を上げることができなかった。 客が期待を込めて見守る暗闇の中、水面を光らすのは実は魔法でもなんでもない。水に溶かした蓄光性の薬品による…

  • 6 / シャルムジカのふたりの男

     その前日の晩のこと。シャルムジカの誘いを断った金髪と黒髪の二人組は、そのままほかに寄り道をすることもなく粛々と、テントの群れがなす通路を余さず踏破した。 風の民が作り上げたこの空間は、紫の夜空の下、橙の明かりが目の高さで焚かれ、朱や臙脂《…

  • 7 / 「お茶を一杯」

     さてどうしたものか。ジェノバはとうに歩き尽くしたテントとテントの間で腕を組み、渋い顔で手元を見下ろしてからため息をついた。 昨晩、ナイト・コンベルサティオ卿——ヴィダと彼とが出した結論は至極簡明なものだ。有効な対策のためには原因を確定しな…

  • 8 / その身に包む

     グライト市街地、路地を少し上がって川面を見下ろすようになった板葺きのテラスで、シャルムジカは向かいに座ったジェノバからは左側に長い脚を投げ出し、膝の上で手を組むとテーブルに目を落とした。 長くウェーブのかかった明るい色の髪はユーレの感覚で…

  • 9 / クレタとサプレマ

     ジェノバとシャルムジカが話してから一週間後——フォルセティがジェノバに尋問されている頃、「甘いものでも」と言ったとおり、クレタはシャルムジカを連れてグライトの市街地に出ていた。 今日のクレタはいつもの踊り子の格好ではない。あれではあまりに…

第3章

  • 1 / 先視の王

     その「部屋」は、部屋と呼ぶには外に開け過ぎている。 美しく整えられた庭は白い石材が多く使われ、周囲を石敷きの通路が囲んでいる。曇り空の下でも咲き乱れる四季の花々は鮮やかだ。中央には豊かに水をたたえた池がある。「部屋」はその、白い蓮の咲く池…

  • 2 / クレタとルーシェ

     まずは海沿いを行くのだと言う。ユーレを出た後の移動経路だ。後ろをついてくるフォルセティを時々振り返りながら、ルーシェは一行の最後尾に近いところを、ずっとクレタと並んで歩いていた。 ユーレは大陸から突き出た半島の、その先端のごく小さな面積だ…

  • 3 / かもめ

     翌日、予定どおり朝早く町を出るという風の民の面々を、フォルセティは何やら話をつけて見送った。 彼が護衛をしているルーシェも、もちろん彼と一緒だ。彼女は不服そうな顔をして、クレタたちの姿が見えなくなるのを見届けると、隣で欠伸をしているフォル…

  • 4 / 吹虫

     ルーシェが「オト」と名付けたその小鳥は、姿がそうなってもなお「竜の虫」だ。竜の虫の存在を感知できる人間はごく限られているし、そういう(「聞こえる」)人間でさえ捕まえることは滅多にできないという——見えないからだ。 旧律やコードは、そういう…

  • 5 / 二人のシルカ

     路銀がもったいないとぼやくフォルセティを説得(半ば無視)して別々の部屋を取ったルーシェは、オトとともに準備された部屋に入った。 そこは当然ながら、王宮の彼女の部屋とは似ても似つかない。しかしそれを彼女は不快には思わなかった。彼女には比べる…

  • 6 / コード あるいは竜の歌

     その頃ユーレの王宮はちょっとした騒ぎになっていた。ルーシェがいなくなったからではない。では何かと言えば、しかしそれはやはりルーシェ絡みのことだった。例の本がなくなっていることに気づいた女王がレヴィオにことの次第を問い質したのである。そして…

  • 7 / 道行、ふたたび

     フォルセティが見当をつけたとおり、メーヴェの町を後にしてから二日でふたりは風の民の一行に追いついた。しかし彼らの借りた馬は次の町で返さなければならないので、まだ郊外をゆっくり進んでいるクレタたちとその場で合流することはできない。結局、先回…

  • 8 / 薄い毛布

     鳶色の長い髪をひとつに結って左肩から前に流し、「庭の主」イヴァレットは渡り廊下をまっすぐ歩いていった。 年齢を感じさせないしなやかな体に沿う白いドレスは極めてシンプルな作り。彼女自身も一切の装飾品を身につけておらず、その様子は飾ることなど…

  • 9 / 今はまだ

     風の民が移動を始めればルーシェもそれについていくしかない。そして護衛であるフォルセティも当然ルーシェのそばを歩くことになる。 さっきから何度目とも知れないため息をつき、ルーシェは立ち止まった。どうしたの、と隣のクレタが心配そうに聞いてくる…

第4章

  • 1 / いわず、しらせぬ

     ルーシェはその晩、さすがにクレタと背中合わせで寝る気になれず、クレタが寝てしまった後も、彼女との間を少し空けたまま布団にくるまっていた。 振り切れてしまった気もする。そうでない気もする。いずれにしても考えても無駄な気がする。だから考えるこ…

  • 2 / 鳥は謳う

     暗い森の中に少女がいる。すらりとした手足に鳶色の髪と、金に縁取られた緑の双眸《そうぼう》。詠唱を終えると彼女はため息をつき、空を睨むように見上げた。ユーレの王宮に忍び込んだシルカだ。 ひと気のない木立のわずかに開《ひら》けたところで、彼女…

  • 3 / 偽りの姉妹

     ルーシェの前でクレタは逡巡を浮かべたが、それを一瞬でかなぐり捨てテントのある方へ駆け出した。彼女の身につけている装飾品がしゃんしゃんと激しく音を立てた。ルーシェも慌ててそのあとを追った。「待って、どうしたの」 ルーシェは走りながら、横に並…

  • 4 / 神の歌、王の風

     クレタはその場に立ち尽くし、シルカの行ってしまったほうを無言で睨みつけた。それを傍目にルーシェは仰向けのフォルセティに走り寄り、その傷口を探したが見つからなかった。正確には傷を負った様子はしっかりあるのに、傷はどうやら塞がっている。「シル…

  • 5 / 地を這う翼の影

     タイガ・アスタッドは齢《よわい》六十を迎えようとする今、一層威厳を増したガイエルの主である。理知的な青い目は濁りなく、ごわついた頭髪も髭も白髪が混じってはいるものの、往年の丈夫《ますらお》ぶりを偲ばせるには十分だ。外征と凱旋を繰り返した以…

  • 6 / それぞれの庭で

     ユーレの水竜が放った浮虫がイヴァレットの水盤へ戻ってきたのは、そのすぐあとのことだった。 昼の陽が真上まで昇り、ちょうど彼女が水盤の下を去ろうとしたとき、その虫は水盤の縁にたどり着き、わずかな振動が水紋を柱になげかけた。イヴァレットは眉を…

  • 7 / 鳥籠と鳥、そして空

     太陽が天頂に向かう時間、シルカは色の溢れるイヴァレットの庭を何の感慨も持たずに通り抜け、王城を出るとまばらな草の生える外に出た。 高い塀をそこから見上げる。ゆるやかな勾配に作られたこの都市の中で、山を背にした一番高いところに作られた城。こ…

  • 8 / 二つの翼

     日が沈み始めると、シオンの地に住まう風の民は巡業中と同じように、自分たちの住居で取り囲んだ中央広場に火を起こす。巡業をやめた者たちの間でもその習慣は未だ守られており、人々は床につくまでのしばらくの時間を炎を囲んで談笑したりして過ごし、そし…

  • 9 / 風と羽根

     シルカはいつもこうして、人目に付かない木立や茂みの奥で短い休憩を取るだけにしている。そして彼女はそれに不満を感じることもない。正確には、そう感じることをやめた。そのほうが楽だから。 クレタが去ったときには、まだ母のことを愛していた。母はい…

第5章

  • 1 / お伽噺、夜の声

     「まものは、その森を通り抜けようとする人々をいつも見ていました。  いつもいつも、見ているだけでした。  近寄れば怖がられるから、手助けもせず、ただずっと、少し遠くから。  けれども迷って戻った人々や、それを迎えた家族や恋人、友だちは  …

  • 2 / 温かい、スープ

     まだ起きるには早い時間だったので、そのままもう一度床につき、ルーシェが再び目を覚ましたときにはもう、隣にクレタはいなかった。 外からは朝食の準備の匂いが漂ってきている。日はとっくに出ている時間のはずだが、隙間から差し込んで来る光は弱々しか…

  • 3 / 暗き淵より

     ドルジが戻ってくるまでは待つしかない。だから無駄な体力消費を嫌うものはテントの中で横になったりしていたが、中には火を囲んで談笑するものも、普段使いの道具の修繕をするものもいる。予想外に空いた時間ではあるが、皆それぞれに有効活用しているよう…

  • 4 / 同にして異なるもの

     ルーシェは目を見開いて彼を見た。 生きていたと言うのか。そんなはずがない。彼は、ルーシェの母——女王デュートが幼少の頃に死んだはずだ。そしてそのときとっくに三十は過ぎていたはず。ならばもし今生きていたとしても、こんな姿をしているわけがない…

  • 5 / 死せる騎士

     ルーシェはしばらく渋い顔をしていたが、やがて大きなため息をつくとテーブルの上で手を組んだ。「よくわからないけど、私が話しやすそうなのは自分を『俺』と呼ぶ方のあなたなのだけはわかった」「僕とは話しにくい?」「揚げ足取られないように言葉を選ば…

  • 6 / 「魔物」のかたち

     並んでキャンプに戻る途中も、フォルセティはずっと押し黙っていた。ルーシェは居心地の悪さを感じ、とにかく何かしゃべろうと話題をひねり出して口を開きかけた。しかしフォルセティがそれとほぼ同時に話しだしたので、ルーシェは結局言葉を飲み込んだ。「…

  • 7 / 蔦を染めるもの

     翌日の朝早く、ルーシェとフォルセティを連れた風の民の一行は、町の外れ、森の手前にいた。 食事はいつもより早く取った。まだ薄暗い時間だった。急いで流し込んだのでルーシェも今日は少し行儀の悪い食べ方をしたが、ここでは誰にも諫められたりはしない…

  • 8 / 青の底

     竜は目を細めた。その青い瞳は朝の湖の色とも晴れ渡った空の色とも違う、不安になるほど鮮やかな色だ。人の目に現れることはない、もちろんフォルセティ=トロイエの榛《はしばみ》色とも全く違うもの。ルーシェはじり、と後ずさった。 彼女の隣でフォルセ…

  • 9 / 虚ろのことば

    「外は酷い嵐だった。森の中にいるときは全然だったんだけどね」 その口調は懐かしむような、穏やかなものだった。口元はわずかだが笑ってさえいる。それはルーシェを、彼がフォルセティ=トロイエなのかノイシュトバルトなのか、一瞬混乱させた。「あいつが…

第6章

  • 1 / 言霊の主

     驚いて聞き返したドルジにシルカは、ふたりを置いて先に行くと繰り返した。 ドルジはこの部族を代表し、女王デュートからルーシェを預かっている。いかに道中の安全を保障できないことを女王に念押ししたとはいえ、さすがに置き去りにはできない。彼は反対…

  • 2 / 呪詛と祝福

    「王に」 ルーシェは眉を寄せたまま復唱し、一度視線を落としてから顔を上げた。「私はそんなものになりたくはないし、第一、私はこの地の者ではないし。だからそれは無理よ」 首を振ったルーシェに、そうかな、とノイシュトバルトは愉快そうに笑った。「こ…

  • 3 / ノイシュトバルトの森

     フォルセティはルーシェの手を引いて一目散に森を抜けた。ノイシュトバルトは涼しい目でふたりを見送っただけで、特段追いすがったりもしてはこなかった。 そこから森の端まではさほど遠くなく、天からの光が梢ごしではなく地面に直接落ちる場所に出るまで…

  • 4 / 虫のあるじ

     ルーシェとフォルセティを残し森を先に出たクレタたちは、その頃彼らの目指す場所の端へと差し掛かっていた。 アドラやファルケといった大国とは比べものにならないが、それでも「国」を作ってよいと差し出されたシオンにはそれなりの広さがある。大陸から…

  • 5 / 老猫は語る

     そのネコはルーシェたちに向かって「おい」と言った。 ルーシェが面食らっているのを横に、フォルセティは肩をすくめ、ネコの前にしゃがみ込んだ。ネコは座ったまま続けた。その声は少年のようだ。「頼まれたから、来てやったぞ」「別に頼んでないよ」「オ…

  • 6 / 旧き名が呼ぶ

     クレタの花虫は蝶のような姿をしている。ひらめく羽が火の粉を散らし、美しかった。その花虫に導かれ、曇天の下をフォルセティと並んで歩きながら、ルーシェは「彼」の言葉を反芻した。——僕らの秩序に死は存在しない。 もし仮に問いを続けていたら、彼は…

  • 7 / 竜の娘

    「彼女の出自は特殊でね」 ノイシュトバルトは続けた。「彼女は巡業中の風の民にこの大樹の根元で拾われ、エルジェシルという名で育てられた。『誰も汝を拒まぬ』という意味だ。しかし彼女の外見は仲間とは違ったし、風の民の血が入っているかもわからない。…

  • 8 / 標のゆくえ

     その日、ルーシェとフォルセティを連れた風の民はテントをたたみ、慣れた手つきで出立の準備を済ませた。 そして太陽が一番高く昇る時間よりやや早い頃に昼食を取ると、一行はシルカの輿を列の中ほどに据え、彼らの「故郷」、シオンへ向け、最後の行程を始…

  • 9 / 大樹の息吹

    「なんで? 何を?」 フォルセティは眉を顰めながら言った。さらに続けようとする彼を遮るように、ルーシェは返事をした。「クレタが言ってたのよ。おばあさまがフォルセティ=トロイエに伝えたいことがあったって」「そんな言うけどもう死んだ人だから諦め…

第7章

  • 1 / 幾つかの土

     ルーシェの呼び掛けに呼応するように、梢のざわめきが不意に消え、辺りが闇に包まれた。 自分の手さえも見えないが、ネコが背毛を逆立てたのを、ルーシェは脚に当たったその柔らかい毛の感覚で知った。「落ち着いて。大丈夫よ」 ルーシェは目の前から視線…

  • 2 / 羽の旅

     集落に入ったが、人の姿はほとんどなかった。こんなふうに広場に火が焚かれていれば、夜更けでもない限り、その周りには多かれ少なかれ誰かしら出ているのが自然な気がする。少なくともルーシェたちが同行していた頃はそうだったはずだ。 クレタの話である…

  • 3 / 騎士の葬送

     その後、室内で何が話され、何が起きたのかをルーシェは知らない。 フォルセティが扉を開け、もういいよ、と言って彼女とクレタ(そしてネコ)を招き入れたとき、アルファンネルは椅子に掛けたまま膝の上で手を重ね、下を向いていた。 イシトは緩やかな立…

  • 4 / 祖母と母と

     次の朝ルーシェはいつもより早く目を覚ましたが、そのときフォルセティはとっくにおらず、クレタもまた見当たらなかった。 身支度を調えて外に出ると、家々からは朝食を準備している匂いがする。ここにたどり着く前過ごした風の民のキャンプでも覚えがある…

  • 5 / 去りにし竜の祈り

     怪訝な顔をしたルーシェの前でフォルセティは大あくびをした。向こうでアルファンネルが「早起きしすぎでないかい」と笑うので、フォルセティはそちらを振り返り、苦笑いをして再びルーシェのほうを向いた。「……と、まあ。からくりがあったんだ」「その前…

  • 6 / 風と歌

     大きな声を張り上げていたのはルーシェが見たことのない男だった。ドルジより少し背が低く、がっしりともしていない。それでも彼の気勢は対面しているドルジに決して負けてはいなかった。周りにも数人いたが、皆ふたりから少し距離を置いて様子を見守ってい…

  • 7 / 箱庭の子どもたち

     ルーシェとフォルセティはクレタを見、アルファンネルも顔を上げた。 シルカは無表情のままクレタを凝視したが、クレタが目を逸らそうとしないのでため息をついて答えた。「あれがおまえの話を聞くかな」「聞き入れるとは思ってない。でも私が、言いたいこ…

  • 8 / 預言の娘

     ルーシェが聞き直す間もなく、フォルセティはイシトを呼んだ。 呼んだと言っても特別な儀式は何もない。フォルセティがしたことは、ただ咳払いをして玄関の方を見ただけだ。ルーシェがつられて同じほうを見ると、そこにはもうイシトが立っていた。 まるで…

  • 9 / 小舟、潮路へ

     ふたりはアルファンネルに明後日の早朝に発つと伝え、アルファンネルはそれを承諾した。彼女の差配で、明日の夕方はちょっとした宴が開かれることになった。 そういう話をまとめたあとにふたりが戻ったころには、クレタの家には当然もう彼女の姿はなかった…

第8章

  • 1 / 水脈をたどって

     ドルジに告げたとおり、ふたりは集落を出るとまず奥の山脈を目指した。 大地を隔てる壁のように横たわるそれは、まだ距離はあるのにかなりの存在感を放っている。少し埃っぽい風が吹き、ルーシェは咳払いをしてからストールをきつく巻き直した。アルファン…

  • 2 / 竜の御使い

     ここからガイエルまでの道のりと宿場の数は、昨日フォルセティが祝福を与えた宿の女性がふたりの部屋で朝食を用意しながら教えてくれた。もちろん特別待遇である。 もうルーシェはフォルセティに毒見をさせていない。やめる、と伝えたときフォルセティは渋…

  • 3 / ガイエル、竜なき国

     ふたりの前に音もなく降りてきた竜は鎌首をもたげ、ゆっくりと周りを見渡した。その姿勢でも竜の目は、ルーシェの頭より高いところにある。青い鱗がちらちらと日の光を反射し、砂ばかりの地面に複雑な模様を描いた。 ルーシェは思わず感嘆の声を漏らし、ま…

  • 4 / 白いタイルの先

     滞在中の居室として、ルーシェとフォルセティとはそれぞれ別の部屋に通された。案内も、ルーシェをシルカが、フォルセティをシャゼリが行い、お互いに相手の連れて行かれた先はわからない。ネコは迷いなくルーシェについてきた。 ルーシェは先を歩くシルカ…

  • 5 / 天衝く塔の夜

     晩に振る舞われた食事は素晴らしかった。 煮込み料理はやや酸味のある、ユーレでは馴染みのない味だったが、体を芯から温めてくれた。海の見えない国であるのに魚も出てきた。ふたりとも見たことがない種類のものだ。ルーシェがテーブルの支度をしてくれた…

  • 6 / 王の肖像

     次の朝、シルカが迎えにいくとルーシェは部屋にいなかった。シルカは部屋の中を見回し、窓辺に茶色い小鳥が入ってきているのを認めてから窓を閉めた。 慌てる様子もなく彼女は図書室に向かい、案の定その窓辺でルーシェが本を開いたまま伏せているのを見つ…

  • 7 / 日の射し込む部屋

     町から帰ると一度部屋に戻り、身なりを改めて整えたルーシェは、窓に映る自分の姿を見、その場で姿勢を正して「よし」と呟くと窓を押し開けた。オトは窓辺を飛び立つとすぐに見えなくなった。 部屋を出るとシルカが待っていた。彼女の格好はさっきまでと変…

  • 8 / 壁の向こうに

     退屈そうな顔で迎えにきたシルカに連れられ、ルーシェはなるべく平静を装って戻ったものの、見慣れた部屋の前まで来ると彼女はシルカを引き込み扉を閉めた。それから彼女は、ぽかんとした顔のシルカをそこに置いたまま部屋の奥まで走って行き、窓辺に手をつ…

  • 9 / 虫籠と虫、そして陸(おか)

     イヴァレットの庭で、りんと鈴のような音が鳴った。 主は振り返ると耳元で虫のささやきを聞き、それからふたたび前を向き直った。 彼女の向かいにはクレタが座っている。色違いの両目それぞれと同じ色の石をはめ込んだ繊細な細工の装飾が、美しく整えられ…

第9章

  • 1 / 王の血胤

     シャゼリたちを部屋から追い出し、つかの間自由の身となったフォルセティは、足元の絨毯を蹴り上げ乱暴にめくるとグローブを外し、両膝をつくと床に四つん這いになった。 最初ここに来たときシャゼリに伝えたことは、もちろん嘘ではない。しかしあの罠の張…

  • 2 / 涸れ川の町

     夕食前にひとりで戻ってきたシャゼリは、フォルセティの部屋の扉を閉めると興奮気味に大股でベッドまで近づいてきて、うつ伏せになっていたフォルセティを見下ろし言った。「すごいな、あの男。良い意味と、悪い意味で」「え? ああ、そう。良かったな」 …

  • 3 / 夕べの祈り

    「やるの? ルーシェが?」 フォルセティは愉快そうな顔を隠しきれずに聞き、姿勢を正すと腕を組んだ。ルーシェは自信ありげに答えた。「ええ。お任せください」「じゃあお手並み拝見しようか。しっかりやってごらんなさい、本職の前だが」「もう。緊張させ…

  • 4 / 国のかたち、人のかたち

     次の朝、ルーシェはエメルに予告どおりに書状を言付けた。中身は宛先以外の者が読むだろうから当たり障りのないものにした。王女と認められたと聞いてうれしい、シオンで別れてからずっと会っていないが帰国したらもう会えることはないだろうからハイロに逗…

  • 5 / 智慧と知識

     シャゼリはマルクトの旧家に向かいながら、あの名のわからぬ男に教えてもらった市中の設備のコードをひとつずつ復習していった。 昨日あの男は家の外に出ると木の枝を拾い、敷地の頂点になっているところひとつずつに印を付けて家を取り囲み「虫除け」とや…

  • 6 / 日没、ふたりのだいじな話

     ネコを連れていても、ルーシェがフォルセティの部屋まで行き着くには一苦労だった。とにかく広い城だし、何よりエメルを連れずにひとりで出歩いているところを城の者に見られたくなかったからだ。 わざわざ部屋を引き離したのだから、ルーシェとフォルセテ…

  • 7 / 返書

     夕食のためにルーシェを呼びにきたエメルは、いっぱいに開け放たれた窓をルーシェが閉めようとしているのを見、手を伸ばして窓を閉めるのを手伝ってくれた。「ありがとうございます」とルーシェが言うと、エメルは少し困った顔で笑いながら聞いた。「虫でも…

  • 8 / 亡国の主従

     朝食を終えさせフォルセティを部屋に放り込んだシャゼリは、いそいそ出ていこうとしてフォルセティに呼び止められた。「今日はあいつ、おまえの相手できないんじゃないかな」 シャゼリは振り返り、なぜ、と聞いた。フォルセティは肩をすくめて答えた。「昼…

  • 9 / 彼女の小さな世界

     鏡を前にして身なりを整える。いつもの髪飾りを外したから、髪はその分いつもよりも少しだけ凝った結い方をした。昨晩指に巻き付けておいた紐をほどいて髪を留めるのに使った。ピンが足りず、難儀した。 ルーシェはそうして準備を終え、少し緊張した面持ち…

第10章

  • 1 / ふたりの母(1)

     それから数日が、何ごともなく過ぎた。ルーシェは部屋の窓を細く開けたまま虫の帰りを待ったが、戻ってきたものはなかった。 この無為な時間が何のためのものなのか、ルーシェはもう知っている。そうして決断を迫られているフォルセティとは相変わらず、ル…

  • 2 / 言祝ぎの庭

     ルーシェはネコと顔を見合わせ、深呼吸をすると頷いた。「そのとおりです。彼は我が国のサプレマの竜」「こんな遠くまで。ご苦労なこと」 イヴァレットは少し意地悪く言ったが、ネコが澄ました顔を背けてしまったのを見、途端に申し訳なさそうな表情になっ…

  • 3 / 火と灯

     夜、オトを窓から放つと、ルーシェはしんと寝静まった城内に小さな明かりだけを手に踏み出した。 蔦虫を一匹、フォルセティのところに差し向けておいたから、彼女が今晩クレタに会う挑戦をすることは彼も知っている。でも彼は来ないし、ルーシェもそれを期…

  • 4 / 煤と灰

     ルーシェが部屋を抜け出た頃に、フォルセティもまた部屋を離れていた。とは言っても彼が向かったのはシルカやクレタのところではない。床に這い石と木とに神経を通わせて読み取った城の間取りを頼りに彼が初めて踏み入った図書室は、広さを知っていたはずの…

  • 5 / ふたりの母(2)

     昨日までより少しだけ温かい風が吹いたその日、エリシュカは意を決してイヴァレットを訪ねた。 侍女を連れ、部屋を出て、女たちのどことなく侮蔑的な視線を浴びながら渡り廊下に向かう。その先の通路に沿って植わっている背の低い木は一見、相変わらず針金…

  • 6 / 未来の歴史

     マルクトがフォルセティの部屋を訪ねてきたのはその翌日だった。フォルセティは書き物を、扉が開かれる前に荷物の下に押し込んで隠し、地べたに座った状態で彼を迎えた。 相変わらず監視役であるはずのシャゼリはいないのだが、マルクトは今日はそれを気に…

  • 7 / 羊飼いの夢

     マルクトが振り向きながら立ち上がった。シャゼリはそれを手で制し、フォルセティの前まで歩いてきた。「陛下が呼んでる」「俺を?」 眉を顰めながらフォルセティが聞くと、シャゼリは頷いてからマルクトに言った。「俺と、こいつで呼ばれた」「……ご用件…

  • 8 / 歌を、あまねく

     城内で必要な資料をかき集め、着替える時間も惜しんで城下のマルクトの家に向かったシャゼリを、イシトはその小さな庭の真ん中に立って出迎えた。「随分慌てているじゃないか」 ニヤニヤしながら言った彼の横を、シャゼリは両手いっぱいの資料を抱えたまま…

  • 9 / ここからすべてを

     ハイロの涸れ川を水が満たし、その流れが緩やかになって市内も落ち着いてきたころ、城に新たな騒ぎがあった。壁沿いに水が流れ落ちる滝がシンボルの第二庭園に突然、一柱の竜が降り立ったのだ。あまり広くはないその中庭は、慌てて出てきた衛兵たちで大わら…

終章

  • ある歴史の序文

     ガイエルは、首都アズラスを擁するイェルファン州を筆頭とした十七の州からなる連邦共和国である。 建国当時の首都ハイロは、遷都から久しく経ち「古都」の呼び名がふさわしくなった現在でもなお、この国有数の都市のひとつである。急峻な山並みを背にして…


アイキャッチ絵とか