ダサい名前の税理士事務所のコーヒースタンドの話

そのコーヒースタンドが間借りしている税理士事務所は、名前がダサい。

バス停近くのコーヒースタンドにまつわるいろんな人のいろんなはなし。

完結済みです。
>>後日譚


1/「僕」、高校1年生

  • 令和4年2月9日(水)

     毎日通る道に、見慣れないものができた。 アスファルトで舗装された、緩やかな下り坂だ。ちゃんと縁石で段にした歩道があるから、バス停まで歩く僕は渋滞している車など横目にすいすい進んでいける。ただ最近は朝が寒くて、しかも前の晩が雨だったりして。…

  • 令和4年2月10日(木)

     あの、ダサい名前の税理士事務所の看板が見えるようになると、僕はもうそればかり見て歩いていたせいか、足元を見て歩いていたここ数日よりも道のりが短くなったような気がした。 コーヒースタンドの前で立ち止まり、店構えをじっくりと見る。店の名前と思…

  • 令和4年2月11日(金・祝)

     今日は学校は休みだけれど、ということは時間に追われなくて済むので、僕はいつもの時間に家を出てバス停(の近くのダサい名前の税理士事務所のところ)に向かった。 もしかしたら平日以外は開いていないかもしれないなと思ったけど、店構えをじっくり見て…

  • 令和4年2月12日(土)

     結局店の名前がわからずじまいなので、僕はあの税理士事務所の名前を手がかりに調べを進めることにした。 といっても僕に使える調査道具などスマホくらいのものだ。自分の勉強机から一歩も離れずに、画面をなぞったり押したりし続けて辿り着いたクチコミサ…

  • 令和4年2月13日(日)

     次の日、僕はお母さんが行こうとしていた買い物の用を買って出た。いつも行くスーパーはバス停の向かい側にある。 クチコミから透けて見えた、あの事務所の税理士さんが、どうしてもおじいちゃんと重なった。いつもおひさまの下にいて、小さいころは何度も…

  • 令和4年2月14日(月)

     財布の中身は昨晩ちゃんと確かめた。僕は今朝、いつもより15分早く家を出た。 税理士事務所そのものには、なんとなく近寄りづらい気分になっている。あの男の人は僕に気づいたかもしれない。でも、だからといって僕は通学路であるあの事務所の前を文字通…

  • 令和4年2月15日(火)

     昨日、もらった直後にバスの中で観察したところ、そのカードはどうやら何かシンプルなカレンダーを切り抜いて、それをコピーして作ってあるみたいだった。カードがやたらでかいのは多分カレンダーのサイズに合わせたせいだな、と思いながら顔を上げると、少…

2/「俺」、33歳、営業職

  • 令和4年2月16日(水)

     バス停で並んでコーヒーを飲んでいたら「ゆうや」が車の話をしてきた。昨日の帰りに事務所前を通りかかったら見かけたんだと。 ゆうやは謎の多い店主のことを、車種にかけて「エックスさん」と呼ぶことにしたらしい。そう言われると非常にダサくて残念なの…

  • 令和4年2月17日(木)

     今朝は特別冷え込むというので、気を利かせた嫁さんが保温タンブラーにお茶を準備してくれていた。嫁さんは中高の同級生で、大学は別だったけど、卒業して同窓会で意気投合して……みたいな、我ながらコテコテのなれそめ。 中学が一緒だったから、嫁さんも…

  • 令和4年2月18日(金)

     フミさんの新車点検の日が来た。 通常は納車1ヶ月でするんだけど、こっちの工場の空きとフミさんの都合がうまく合う日がなくて、とくに不具合もないからということでなあなあになり、延びた。 この点検は問題がない限り1時間もあれば終わるから、その間…

  • 令和4年2月19日(土)

     今日は朝から娘その1がいない。 我が家は俺と嫁さん、娘2人の4人世帯である。娘その1が栞《しおり》、再来月から小学生。その2が一葉《かずは》、3歳。どっちの名前もさおり(嫁さん)が提案し、俺はノータイムで賛成した。本に関係する名前だと聞き…

  • 令和4年2月20日(日)

     昨晩栞は暗くなってから帰ってきた。自分の足じゃなく、いっちゃんパパの背中に揺られてだ。玄関先で恐縮しながら受け取って抱き抱えると、いっちゃんパパは栞の膝のあたりに「あとこれも。パパにお土産だそうです」と紙の小袋を乗せてくれた。サービスエリ…

  • 令和4年2月21日(月)

     出掛けにさおりから預かった空のタンブラーをカードと一緒にフミさんに差し出しながら、俺は「こないださおりに会ったっしょ」と聞いた。 2日しか空いていないのに、ここに来るのをすごく待ち侘びた気がする。さおりから、フミさんと話したと聞いたせいだ…

  • 令和4年2月22日(火)

     昨晩帰宅後さおりに、フミさんに渡したメモのことを聞いてみた。結構勇気を出して聞いたけど、さおりは揚げ物をしながら何の戸惑いもなく「久々に会えてうれしかった、かずちをよろしく的なこと書いた」と答えてくれた。 俺はひとまず安堵したが、となると…

3/「私」、24歳、事務職

  • 令和4年2月24日(木)

     このコーヒースタンド(が間借りしている税理士事務所)は、私の会社の管理物件だ。 私は一昨年、大学を卒業した後地元に戻って、不動産を扱う会社に就職した。不動産といってもいわゆるデベロッパーみたいなかっこいいやつではなく、地域密着の、家族経営…

  • 令和4年2月25日(金)

     私が初めてここに来たとき、このコーヒースタンドはまだなかったし、事務所にはインターホンも設置されていなかった。私と先輩は、外からガラスをトントンと叩き、掃き出し窓を引いて中に入った。 おじいちゃん税理士は奥のデスクについて、分厚い本で調べ…

  • 令和4年2月26日(土)

     この時期、私の会社はほぼ休みなしである。春から大学生になる子たちが部屋を見に来るからだ。確かにネットの情報だけでも地域の雰囲気なんかもある程度はわかるけど、やっぱり実際来て見て感じられることは、どんなに高画質な動画から得られる情報よりも濃…

  • 令和4年2月28日(月)

     ラジオ体操風カードの最後の日が来た。私は今日も閉店ぎりぎりにスタンドに寄った。オオガさんは私からタンブラーを受け取りながらポットに手を伸ばした。 どうもあのステンレスのポットには、3、4杯分のお湯しか入らないみたい。タイミングによっては新…

  • 令和4年3月1日(火)

     3月になった。あちこちで梅が咲いている。桜の開花予報も出た。私は昨日のうちに名前を書いておいた今月のカードを財布に入れ、家を出た。 先月のラジオ体操風カードは「なつかしさ」をテーマにリサーチして決めた。その方向性については、幼稚園みたいな…

  • 令和4年3月2日(水)

     昨日のもやもやが頭を占めたままだったので、私は今朝「お金払うから話聞いてもらっていいですか」とオオガさんに言った。 別に弁護士さんに聞きたいことはない。Win-Winな偽装結婚なんかただの妄想だし。でも、私の抱えるもやもやは誰かに聞いてほ…

  • 令和4年3月3日(木)

     今朝のニュースの締めはひな祭りの話題だった。食卓を挟んで向かいに座ったお母さんは、横のテレビから前の私のほうへ顔を向け、じっとこっちを見た。 私は目玉焼きを、下に敷かれたベーコンごとご飯の上に移動し、黄身を突き崩しながら「なに?」と聞いた…

4/「私」、29歳、公務員

  • 令和4年3月7日(月)

     父が死んだのは2度目だ。いや、もちろん、実際は1回なのだけども。 小さい頃から、母には「父は死んだ」と聞かされてきたので、私はてっきりそうなんだと思っていた。実際、覚えている限りでは、うちは母と姉と私の3人家族で、父という立場の人がその中…

  • 令和4年3月8日(火)

     昨日私がコーヒー1杯に払ったのは千円だ。どんな本格派のが出るかと思ったら、店主はインスタントコーヒーの瓶を隠しもしなかった。 いや、まあ。ちゃんと言われはした。「うちはインスタントだし1杯ずつで精算してないから1回しか来ないなら損ですよ」…

  • 令和4年3月9日(水)

     父の関係のことは、すぐにどうするか決まった。 姉は裁判所からの手紙が来たあと、何箇所かで話を聞いてきたらしい。ずっと音信不通だったというなら父がどんな負債を抱えていたかもわからないし、調べるにも時間や費用がかかるから、とくに欲しいものがな…

  • 令和4年3月10日(木)

     朝、出掛けに電話があった。でもちょうど靴を履いてるタイミングだったのかな、その場ではわからず。着信に気づいたのは、私が大神先生にカードを渡し、お湯が沸くのを待つのにスマホを取り出してからだった。電話がかかってきてから15分くらい経っていた…

  • 令和4年3月11日(金)

     朝のニュースは震災から何年、という話をしていた。あの災害が起きたのは私が就職した年のことだった。もうそんなになるのかと思いながら、私は家を出た。 数年前に駅前のコーヒーショップで買った、春限定のさくら柄のタンブラーも持っているのだけど。昨…

  • 令和4年3月12日(土)

     お昼前にスーパーに行った。パックのお寿司とシュークリームを買って、あと牛乳と卵。ほかにいるものあったかなと思いながら棚の間を歩き、コーヒーのコーナーに来た。 つい、大神先生が見せてくれたあの瓶を探してしまった。昔からほぼ変わらないラベルの…

  • 令和4年3月13日(日)

     昨日別れ際、大神先生は「勇気が出たらお母さんに電話してあげてください」と言った。 私は、大神先生がそんなことまで踏み込んできたのは意外だったけど、すぐ納得した。なにせ本業と並行というハードスケジュールを組んでまでこのコーヒースタンドを開い…

5/「僕」、33歳、弁護士

  • 令和4年5月23日(月)

     僕が祖父の事務所の明け渡しを終えてからもうすぐ二月《ふたつき》になる。 それなりにイレギュラーな処理を重ねたので、関係各所との折衝を慎重にする必要があって、早起き以外の負担もいろいろ生じたのだけど。方針を決めたのは僕だし、やることは全部や…

〈完結〉


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ツイッターで宣伝するときに使ってました。