xix / Clematis hybrida


 最初の任務の日から一年が経った。その間に過ごした日々は、結麻にとってはそれなりに幸せと呼べるものだった。その後受けた任務を、結麻は翠嵐が言ったように、少なくとも「実行」の段階では全て任せていたし、翠嵐は翠嵐で、それを人間離れした能力(人間ではないのだから当然といえばそうだ)を惜しみなく使って、与えられた時間にかなり余裕を持って仕上げてきていた。
 これほど任せっきりでいいのだろうかと悩むことがなかったわけでもないが、翠嵐はその都度、こうしたいのだと無言の意思表示を送って来ていたから、結麻は一応納得して、仕事の完成を度会家に報告に行くのだ。そういうわけで、彼らの評価は上々だった。

 その報告に、最初はほぼ毎回、前当主である早稲が応対してくれていた。
 彼は結麻の父親とはあまり良好な間柄ではなかったはずだが、結麻はその現場を見たことはなかったし、彼の落ち着いた物腰や威厳のある態度を見るにつけ、当主とはこうあらねばならないのだと感じ、彼に畏敬の念を持つと共に、自分の負う「瀬尾家」に以前ほどの重みがないことに安堵するのだった。そして当然、名目上とはいえ現在の度会家当主である紗藍のことを思い出すのだが――結麻は毎回、そこから先を考えるのは、やめてしまった。


 しかし、近頃その早稲が姿を見せなくなっている。彼が直々に終了報告を受けるのは結麻に限らなかったのだが、集落の他の者もここ一月ほど顔を見ていないという。だから終了報告を受けるのは、彼の弟になっていた。今は所帯を持ち、他に屋敷を構えて度会傍系をなしている男だ。
 本家の当主は名目上は紗藍だった。だから早稲が手の離せない用にかかっていたとしても紗藍が出てくれば良かったはずなのだが、さすがに今までの紗藍では早稲の代わりは務められないだろうし、何より、理由ははっきりしないが、彼女もずっと表に出てこなかった。そのため、早稲が当主として彼女を鍛え上げでもしているのだろうと誰もが笑っていた。

 だが、それが理由ではないようだ、と結麻は感じた。連理が死んで一年の日に執り行われた式に、早稲が顔を見せなかったからだ。これまで彼はどれだけ忙しくても、そういったものには必ず顔を覗かせていたというのに。


 あの炎に包まれた大きな屋敷で、紗藍がどんな顔をしていたか。それを思いだし、結麻は薄ら寒いものを背中に感じた。
 紗藍は皆が思っているほど純粋で甘えた少女ではない。少なくとも彼女は思っていた。彼女しか知らない紗藍。あれがきっと、本当の姿なのだ。彼女は打算的で、平気で事実を隠す面を持っている。今回もまた何かを隠しているのではないか。


 そしてその漠然とした恐れを、それから程なくして結麻は確信に変えた。


 その晩、連理の一回忌の後初めての任務について、度会家の屋敷で早稲の弟に報告した日だった。
 この後少なくとも数日は、余程急なものが人手の足りない時期にでも入ってこない限り、結麻と翠嵐とには仕事が入らないのが確実だった。だからその晩、夕食を終えた後の二人には何ともだらりとした空気が漂っていたのだが、来訪者がそれを急転させてしまった。

 扉を叩く音に立ち上がり、結麻が合わせた顔は紗藍のものだった。
 一年ぶりの彼女は、玄関先から見えた翠嵐にひょこりと頭を下げると、応対に出たまま言葉を選びあぐねている結麻と目を合わせた。炎遥がいる様子はない。彼の「虫」も、いないようだ。
 紗藍の方が結麻より少し背が低い。そのため紗藍はいつも若干上目遣いに見えるのだが、結麻は今それに違和感を覚える。それに気付いたのか、紗藍は一度俯いてからもう一度顔を上げ、口を開いた。
「父が死んだの」


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 結麻は眉を顰め、後ろに目をやった。さすがの翠嵐も驚きの色の見える顔で結麻を見ている。
 紗藍はすぐに先を続ける様子はなかった。結麻は彼女の脇から外に顔を出し、誰も見ていないのを確認してから彼女を中に招き入れた。


 結麻の家には、応接と呼べる場所はおろか設備もない。だから彼女は翠嵐に椅子を譲るよう言いかけたのだが、彼女が口を開く前に彼は自ら椅子を紗藍に譲ったので、結麻は紗藍が相変わらずの控えめな様子で腰掛けるのを見届けてから、その向かいに座った。

「お母様は?」
 紗藍が自分から話を始めるのを待たず結麻は尋ねた。
「お母様は知ってるのよね? そのこと。紗藍はうちに来てる場合じゃないんじゃない」

 紗藍にきょうだいはいないが、両親は揃っていた。だから今は母親についているべきだと、何より家を離れるべきではないと結麻は考えた。そのため玄関先で彼女を返してしまうべきかと思いもしたが、紗藍の顔は近親者を亡くした悲しみよりほかのものが勝っているように見えたので、それ――彼女が尋ねてきた理由、目的を果たすまで彼女は戻らないだろうと諦め、中に招き入れたのだ。


 そして案の定、紗藍は一息ついてから、顔を上げるとまっすぐ結麻を見つめ、言った。
「私は、この集落を変えようと思ってる」
「変える? どういうこと」
「家の争いなんて、二度と出てこない仕組みに」

 そう言って紗藍は、膝の上に置いていた手を卓上で組み直した。
「今は結麻のご両親が亡くなってからそんなに経っていないから、新しい勢力もないけど。こんな体制を続けていれば、必ずまたどこかの家が力を付けて争いになる。度会家の中でもあり得るかもしれない。そうして集落の内部で、水面下の抗争が続く。私はそういう現場をずっと見てきた、あの家にいると見えるの。見たくなくても」
 紗藍はため息をついた。

 結麻には、紗藍の言葉が簡単には信じられなかった。嘘をついていると思ったのではない。あのおっとりした紗藍と、今目の前にいる少女とが同じ人間とは思えなかったのだ。そういう事実を「見ている」のはよく分かっている。しかし変化を自ら望もうとするような少女だっただろうか?
 だが、それは連理のことを隠そうと言ったあの時の紗藍にも同様に感じたことだ。結麻は頭を振ると先を促した。
「言うことは分かるわ。でもそれは……」
「意味はあるよ。今、結麻に言う意味が」
 結麻は口をつぐんだ。


「私の家は、長年この集落の中で特別な地位を、瀬尾家を始めとする対立相手と争って来た。そして中でも父はその頂点、対立相手がいなくなったときの当主。だから今の『当主』には特別な力がある。誰にも有無をいわせない力だね」
「……そうね」

 その力がなんだというのだ。自分の犯した罪をもみ消した力を、紗藍は確かめにきたのか。
 結麻の中にふつふつと嫌悪に似た怒りが湧き始めようとする。しかし、紗藍は結麻のそうした変化を気にも留めないように先を続けた。

「父が死んだら、実質上も私が当主になる。そしたら私は度会家の傍系に、私の家が持っている地位や特権を継がせないと宣言する。そして私は、死ぬまで跡取りを産まない」
「それじゃ血が絶えるわよ? 今の、一つの家がみんなを代表して仕事の統括と配分をする体制も働かなくなる。紗藍だけの問題じゃ済まなくなるわ」
「そのかわり、死ぬまでに何か新しいやり方を考えるよ。一つの家が力を独占して、その力を取り合ったりしない体制を」
「でも……どうしてそんなことを」
 眉を顰めた結麻に、紗藍はふわりと笑った。


「私は連理を殺した」
 彼女はぽつりと言った。
「結麻を殺すなんてこと許せなかった。だから私はどうしようもなくなって、連理を殺した……」
「でも、嘘をつこうって言ったのは紗藍よ」


 話がどうも飛躍している気がする。早稲が死んだことで紗藍は少なからず動揺しているのだろう。だからこんな所に来てしまった。結麻はそう考え、紗藍に帰るよう促そうとしたが、その前に紗藍は口を開いていたので、結麻は浮かした腰を落とさざるを得なかった。
「連理の死をきっかけにしたくなかった。結麻がもっと孤立していくきっかけに」
「私を理由にするの?」
 呆れた苦笑に見えたのだろう。結麻の顔を見た紗藍は首を振った。

「逆に言えば、きっと、別のきっかけにしたかったんだね。私は手を汚した。これを意味のあるものにするためにどうすべきか、あの後ずっと悩んでいた」
「……で?」

 独りよがりなことを言う。ここに来たのは言い訳のためか。結麻の中ではその思いばかりがたぎっていた。しかしそれを翠嵐が抑えた。部屋の仕切りの向こうで、彼がどういう格好をしているかは分からない――しかし、「聞け」と、そう言っていた。彼もその場で耳をそばだてているのだろう。
 そのため結麻は、紗藍に自由に続けさせた。そしてその内容は、翠嵐が制止した意味を理解させるのに十分な内容だった。


「連理は、家の抗争のために死んだ。私がその抗争の流れを受け入れて非情になりきれず、結麻に死なれたくないという我侭を通したから。でもそれは本当に『我侭』なのかな、って考えていた。それが我侭と呼ばれていいのだろうか、って。
 そしてもう一つ――力を手に入れた父が、今のあり方を変える気になどなり得ないことも知っている。自分の采配に従う人々から直接報告を受けた後、一人になった部屋で父が浮かべていた満足げな笑い、みんなきっと知らないよね」
 そこまで言って、ふふ、と笑った紗藍は一度目を伏せてから結麻をまっすぐ見つめた。
「だから私は、名だけではない、本当の当主になって全てを変えることに決めたの。一度汚した手は、これ以上は汚れないもの」


 ほう、とため息をついた紗藍が立ち上がる。しかし結麻はそれを、信じがたいものを見るような目で見上げることしかできなかった。

 紗藍は困ったように笑った。
「今日はお別れを言いに来たの。私はこれから、度会家という甘い汁を吸い続けたい親族、今みんなの報告を受けてる叔父とかね。そういう人たちの敵になるから、あまり安全な身じゃなくなる。だから結麻とも、もう会わない方がいいと思う。でも、こないだのままは、嫌だったから」
 すっきりした、と笑った紗藍は、一歩足を引くと背を向けた。


 紗藍が扉に手をかける。
 扉が開いて、外の風が入ってくる。
 結麻が腰を浮かせた。紗藍はもう外で、扉を閉めかけている。

「早稲さんを、殺したの……?」


 扉が閉じられた。
 紗藍は振り向かなかった。


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