ii / Zelkova serrata


 結麻と「扉」とを中央に迎えた石葺きの場を取り囲む林は痩せた土壌のせいか、それがそこに生育を始めてから経過した年月に比して考えれば、随分幹の細い木が多かった。
 空に向かい、逆円錐を描くような形で枝を伸ばすその木々の葉は、今の季節は落ち着いた緑をたたえていた。それは緩く間を吹き抜けていた風に梢を揺らしていたが、結麻が言葉を唱え出すと、まるでその言葉に応えたかのように凪いだ沈黙に沈んだ。

 鳥が一斉に飛び立った。
 そして木々が、音を立てて成長を始めた。


 長老が眉を顰めた。そこに並んでいた三人の男は空を見上げた。足元が暗くなっていく。日の光が遮られ始めていた。
 幹が呼吸しているかのように脈打ち、梢は邪魔立てするものがあれば刺し貫かんばかりの勢いで広がり、また同時に天を目指した。伸びた枝にも、これまであった枝にも新しく葉が生まれ、開き、色づいて散るそばで別の葉が生まれる。「扉」を中心に円を描くように、近いものほどその速度は高く、詠唱を続ける結麻は黄と赤に色づいた落ち葉に遮られ、長老らのいる場所から見えなくなるほどだった。

 勿論、結麻の側からも後ろの長老らを見ることはできない。
 しかし詠唱を終えた彼女は後ろを見ようとすらしなかった。それより彼女には正面に、見るべきものがあったからだ。


 彼女の眼前に現れた竜は、今まで彼女が当たり前に見て来た竜を遥かに凌(しの)ぐ威圧感を持って彼女を見下ろしていた。それはその竜の体の大きさ、高さもあったし、背に負う翼のせいもあっただろう。畳まれてはいたが、三双ともなると存在感は十分だった。
 尾に向けて背骨沿いには僅かに葉の色づきと同じ黄と赤が混じるが、全体は砂のような色のざらりとした皮膚。地竜だ。外界とその場のふたり、正確には「一頭とひとり」を隔絶するように舞い落ちる紅葉の嵐に比べれば、随分と地味な色をしている。しかしその竜を見上げた結麻は、思わず言葉を漏らした。
「きれい」
 竜は彼女を見下ろし、若葉の鮮やかな緑に彩られた目を細めた。

 少し間を置き、竜は首をもたげて咆哮を上げた。小さな集落全体に響き渡るのに十分な大きさだった。呼応するように幹を震わせた木々は成長を速め、しかしもう一度季節を巡った所で勢いを止めた。


 来た時、つまりその地竜を呼び出す前に比べ、格段に高く茂った林の天井に結麻は目をやった。落ち葉を踏む音が後ろで聞こえ、彼女は振り返った。長老がすぐ後ろまで来て、囁いた。
「とんでもないのを呼んだな。普通はここまで周りに影響はせんよ」


 肩をすくめた結麻が前に向き直ると、竜は上に向けていた顔を下ろしてふたりを睨みつけた。結麻が見ほれた新緑の瞳の中、瞳孔は酷く細く、捕食者のようだった。人間の都合で異次元に引きずり出されたのだ。ぴりぴりと尖った空気が皮膚を刺した。気が立った竜は必ずしも契約を望まない。
 これまでの経験が肝を座らせている長老は、後ろの三人のように怖じ気づきはしなかった。老人は結麻を小突いてもう一度振り返らせると、下がった男らに聞こえない程度の声で耳打ちをした。

「やり直した方が良くはないかね。先ほどは連中の手前、紗藍との兼ね合いでおぬしには礼を失したことを言ったが、わしは今は心からそれを勧めるよ。経験から言うが、こういうのとは、たとえ今は契約を結べても長続きしないことが多いのだし……」
「ううん、ありがとう。でも大丈夫」


 咆哮を聞きつけ集まって来た集落の者たちがざわざわと取り巻き始めた中を、一人の黒髪の少女が促されるままに前に進み出た。隣に燃えるような赤の鱗を纏(まと)った竜を従え、彼女は結麻から離れた長老に並んで立った。
 結麻は彼女に気付いたし、それが紗藍であることも分かったが、かと言って特に何も言うことなく、そして表情を変えることもなく、再びするりと顔を上げると竜を見上げた。

 紗藍は結麻と同じ十七歳の少女で、つい先日契約竜を呼び出して当主の座についた。そして度会の名を負って立つ彼女が集落では特別扱いされていることも、周囲から除(の)け者にされないためには衆目の前では彼女に頭を下げておくべきだということも、結麻は知っていた。たとえ紗藍自身がそれを望んでおらずとも事実は事実だ。彼女の負う家名は、ここでは今や支配者に近い意味を持っている。
 それでも今の紗藍は野次馬のひとりに過ぎない。彼らが見に来た竜は、結麻にしか用がないのだ。彼女は大きなため息をついた。うるさいと言った訳でもないのに、周囲のざわめきは一瞬にして消えた。

 静寂(しじま)が覆い被さったその石葺きの地面を一歩進み出ると、彼女は腰に両手を置いて竜を見上げ、口を開いた。
「で? あんたはどうしたいのよ」


 竜は動かなかった。周囲には何の注意も払わずに、相変わらず若葉色の瞳で彼女を睨み下ろしているだけだ。大きさからも、能力からも、彼女はそんな口を利けばそれこそ文字通り一蹴されてもおかしくない立場だ。それでも彼女は竜を睨み返した。無謀と言えば無謀な行動だった。
 しかし、それに対して竜には何の変化もなかった。しばしの沈黙の後、結麻は肩をすくめてから先を続けた。

「こことか、私とか。気に入らないなら残れとは言わないわよ。その時はあんたの足元の『扉』、丸めてまた納屋に放り込んでおくから。それで元通りになるし、私は文句言うつもりもない。好きに決めて」
 足元を埋める紅葉を踏みしだき、彼女は竜との間を詰めた。懐と言ってもいい距離で、彼女はもう一度顔を上げた。頭上を一枚、赤く色づいた葉がひらりと舞った。
「自分で選んで。ただ残るにせよ残らないにせよ、この辺は片付けて行きなさいよね」


 竜はゆっくりと目を細め、見上げる彼女の横で巨大な翼を広げた。周囲が咄嗟に半身引いたり腕で顔を守ったりする中、風圧が落葉を舞い上げ、それは青い空に散り吸い込まれていった。
 それから竜は長い首をすいと前に下ろした。固い皮膚に覆われた鼻先が結麻の額に触れた。承諾の証だ。周りを囲んでいた者たちの間から、小さなさざめきが漏れた。


 紗藍は隣にいた彼女の契約竜に目配せをした。何か言葉を交わしたようだった。聞き取れはしなかったが、その様子に気付いて振り返った結麻に紗藍は小さな会釈をすると、背を向けその場を後にした。
 彼女の竜が一度振り返って、結麻の後ろの緑の瞳を仰ぎ見た。彼は顔をすぐに前に戻し、主の後を付き従っていった。


 その晩、結麻は竜に名を与えた。竜は特に反対の意を示さなかったので、彼はそれから「翠嵐(すいらん)」と呼ばれることになる。


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