第6章 8

灯は手の中

 その日、太陽が一番高く昇る時間よりやや早く、ルーシェとフォルセティを連れた風の民は、テントをたたんで慣れた手つきで出立の準備を済ませた。
 そして少し早めの昼食を取ると、一行はシルカの輿を列の中ほどに据え、彼らの“故郷”、シオンへ向け、最後の行程を始めた。


 シルカの輿を中心に、花虫の柔らかい熱が一行を包む。それは吹虫オトを連れたルーシェの周りにはこれまでとどかなかったが、途中合流したネコがオトをうまく制御してくれるようになったため、ルーシェもその恩恵を被ることができるようになったものだ。それを経験して初めて、ルーシェは風の民が薄着でいられる理由を実感した。温かい、と言われてはいたものの、これまで眉唾ものだと思っていたのだが、実際体験してみると、その効果のほどは明らかだった。まるで、たき火のそばで温められた毛布にくるまれているような感覚。

 ネコは一行の最後方、ルーシェとフォルセティの足許を小走りまじりで歩いていたが、やがて疲れてきたのか、尻尾を上げて前の方に走っていくと、妊婦や子どもの乗った馬車の中に飛び上がり、そこに収まってしまった。幌がないので風はしのげないし、賑わしく、せわしない場所でもあるが、歩いてついていくよりはマシ、と判断したようだった。


 出立の前、クレタは、明日の晩にはシオンに着く、と言った。シオンには今回の旅に同行しなかった、クレタたちの部族の残りの民が待っている。
 ルーシェは周りを見回した。フォルセティによれば、一行のまとめ役であるドルジも、身重の妻をシオンに残してきたと言う。ここにはシオンに大切な人を残して旅に出た者がたくさんいる。それらの者にとっては、たとえ「与えられた」国であり、生まれた場所ではなくても、シオンが帰るべき場所、故郷であることには変わりがないのだろう。
 そのせいか、シオンが近づくにつれ、周りの皆の顔は明るくなっていっているように見えた。中にはシャルムジカのように表情に変化のない者もいたが、それでも耳をそばだてると、知り合いの誰それに今回の旅の土産の何を渡すのだとか、誰それのところには今回の旅の間に子どもが生まれているはずだとか、誰それの家の病人に今回入手した薬を届けるのだとか、シオンに着いたら何をするか、皆それぞれ到着を心待ちにしている様子がうかがえた。

 一方自分はどうか。ルーシェはため息をついた。
 アルファンネルに会う、という当初の目的が達成できそうなのだ。母の代わりに会うという役割も果たせそうだ。だというのに、なぜか気分は晴れなかった。
 それはシルカのこともあるし、その母イヴァレットのこと、ガイエル王タイガのこと、それらに自分がーーというよりは「フォルセティの青い本」がーー何かしらの関係があり、狙われているということ、そして何より、ノイシュトバルトの、あるいはフォルセティ=トロイエ(“イシト”と呼んで良い、と彼は言ったか)のことが、あるからだった。


 この旅の間に、彼女は、いつの間にか様々な人や、人でないものの思惑にとらわれ、その障害となり、一部となり、あるいは駒となっている。彼女が望むと望まないと、それはことあるごとに突きつけられた。
 もっとも、ノイシュトバルトのことに関する限りでは、彼女が自ら飛び込んでいった面はあるけれども、それでもやはり、彼の計画に乗るのには未だにためらいがあった。ノイシュトバルトが言霊の王として復権を果たすことが、ルーシェたちにとって「よいこと」であるのか、それがルーシェには全くわからなかったからだ。
 そもそもルーシェにはコードや旧律といった力を秘めた言葉の知識がなかったし、それがこれまでどのような歴史を辿り、どのように使われてきたかについては、むしろマイナスのイメージしかなかった。彼女の知る限りーーいや、正確には「認識する限り」、少なくともサプレマやプライアが祭祀の手順として唱えるものを除けば、「力を秘めた言葉」は常に呪詛であり、祝福として発されたそれは、形ある効果をもたらさない。
 そしてルーシェには、それこそが、ノイシュトバルトにかけられた呪いなのかもしれない、とも思えた。

 彼や、彼を「存在」として認識させる「言葉」は、常に呪いとしての意義でしか語られない。人々はそれを忌み嫌い、それを用いる者を社会から排斥する。そうして彼は触れ得ざるものとして扱われ、やがて社会や人々の記憶から抹消される。
 あるいは、と、ルーシェは足を止めた。本当は祝福も意味を成しているけれども、誰もそのことに気がついていないのだーーそんな可能性も、あるのではないか。与えられた幸福は「あたりまえのもの」、与えられた不幸は「呪詛のせい」、そんな風に捉えてしまっているために、祝福には何ら力がないのだと思い違いをされているのではないか。


 足をとめたルーシェに、数歩先で立ち止まったフォルセティがいぶかしげな目を向けた。
「どうしたんだ」
「ううん、なんでも……そういえば」
 ルーシェは後ろを振り向いて瞬きをし、すぐに前に向き直るとフォルセティの横に並び、再び歩きはじめた。
 フォルセティが先を促す。ルーシェはそれには応えずに前を見たまま、ユーレを出たあとを、ひとつずつ数えるように思い出し、最初に寄った町の景色を思い浮かべた。ルーシェとフォルセティが、初めてクレタ達と別れた場所。そこでフォルセティは、彼の両親の知り合いだという家に行き、そこで何か話を聞いたはずだ。
 サプレマが、その家の息子に祝福をーー

「メーヴェに寄った時だけど」
 ルーシェは、頭をひねったまま横を歩いていたフォルセティに目配せをした。
「うん? あの時がどうした」
「寄った家の人に、以前サプレマが祝福をしたっていう話があったでしょう。その人のおじいさんがサプレマにお願いしたとかって」
「あったね」
「もしその祝福がなかったなら、あの人はどうなっていたのかしら」
 そんなこと知るかよ、とフォルセティは肩をすくめた。ルーシェも「そうよね」と返すほかなかった。


 祝福がなかったなら不幸になっていたであろうとか、そんなことは誰にも知るよしもない。これではやはり、祝福の言葉に力があることを証明することはできない。
 しかし逆に、呪詛がなかったなら幸福になっていたであろうとか、そんなことも、誰にも知るよしもないはずだ。
 なのに。

 フォルセティ=トロイエは、ノイシュトバルトが自分に“呪い”を放ったと言った。
 フォルセティもまた、そのように考えている。死せる騎士が彼に受けたものは“呪い”であると。そう考えている。
 コードの力を知っているフォルセティですらこうなのだ。そしてその彼は、祝福の意義を信じてはいない。ルーシェもそうだ。
 こんなふうに、多くの人々が、呪詛にだけ力を認める。なぜだろう。
 降りかかる不幸の責任を余所に求めれば、自分は無関係でいられるからだろうか。
 そしてそれらの人々が、祝福に力を認めないのはなぜだろう。
 幸福は自らの力で得たものだと信じていたいからだろうか。
 祝福に力がない方が、良い気分でいられるからだろうか。

 ならば、祝福などなくてもいいはずだ。
 なのに人々は、それを求める。無意味なものとの認識を持ちながら、それを求めるのだ。


「……矛盾してるわ」
 ルーシェがぽつりと言うと、フォルセティは眉を寄せた。
「いきなり何の話だよ」
「ノイシュトバルトと話をしたの」
「いつ?」

 昨晩、とルーシェが答えると、フォルセティは呆れた顔で、無言のままルーシェを糾弾するかのように指さした。その指をルーシェは手で押さえ、下にむけさせた。
「別に一人で出かけたりしてないわよ。ごくごく平和的に、話をしただけ。と、私は思ってるけど、夢の中の話だから、もしかしたら、私の頭が勝手に考えたことかも」
「つまり、会って話した気になってる、っていうこと?」
「そうとも言えるかもしれないわ」


 フォルセティは大きなため息をついた。
「なんか最近、おまえ変だぞ」
「そうかしら」
「そうだよ。現実と想像の世界がごっちゃになってるっていうか。見えないもので判断しようとしてるっていうか、その……」
「寄る辺を失っている感じは、自分でもしてるの。何が正しくて、何が望ましくて、何があるべき姿なのか、よくわからなくなってる」
「だろ、難しいこと考えすぎなんだよ」
「そうね。道を見失ってる気がするわ。そんな時にサプレマはどういう助言をするの?」
「いきなり何だよ」

 眉を顰めたフォルセティに、ルーシェは肩をすくめた。
「あなたもいずれはサプレマになるんでしょう。このくらいのこと答えられないと、だめよ」
 いずれは、と困り顔で繰り返したフォルセティは、ため息をつくと腕を組んで首を傾げた。
「俺、そんな相談したことないからなあ……母さんなら、そうだな……想像できない」
「じゃあ、コンベルサティオ卿なら何て言うの?」
「父さん? 好きにやれって言うだろうな」
「適当ね」
「俺、信頼されてるんだよ」

 ああ、そう、とルーシェは気のない返事をした。フォルセティは不服げに口を尖らせた。
「折角答えてやったのに、何だよその雑な返しは」
「だってあなたの言ってることが雑なんだもの」
「なんだよ。ウチの両親はアレでも俺をまともに育てた自信があるから、俺の判断に任せてくれるんだろ。別に雑じゃないじゃん」
 ルーシェは瞬きをした。なにかとても単純な答えが、腑に落ちた気がした。

「……なんか、わかったかも」
「なにが?」
「わからないけど。私、もう少し自分を信じてみることにするわ」
「あ、そう」


 今朝方の夢は、夢ではなかったのだろう。いや、夢は夢だが、あのノイシュトバルトはルーシェが作り出した幻影などではない。彼の語ったイヴァレットの母、エルジェシルの話も、あの森を守っていた地竜の話も、きっとすべて本当だ。彼は嘘を語らない。言葉の力をーーその恐ろしさも、誰よりも知っているから。
 彼自身は善でも悪でもない。正でも誤でもない。そして真でも偽でもない。人々がこれまで弄してきた言葉には功も罪もあるけれど、それは彼自身の負うべき責任ではない。彼は無辜だ。
 ならばあの森の檻に閉じ込められる謂われは、彼にはないはずだ。

 彼を解き放ってやりたいと思う。自らを責めきれなかったエルジェシルが、彼女を含むあらゆる人々が、これまで言葉のーー「呪い」のせいにした様々な不幸を、彼が背負わされたものを、重くのしかかる数多の悲嘆や絶望のすべてをあの森に埋め捨てて、彼を自由にしてやりたいと思う。
 そのためには、何をすればよかったか。ルーシェは既に、彼の盤上に上がった。言祝ぎの王の復権は、王手にはまだ遠い。ただ、ゲームを始める目処は立った。そのために残る駒はひとつ。
 ルーシェはちらとフォルセティを見た。


「なんだよ、さっきから」
 一行からやや遅れ気味になっているルーシェの隣を並んで歩きながら、フォルセティは眉間に皺を寄せた。それに彼女は別に、と頭を振り、尋ねた。
「フォルセティの竜は、ノイシュトバルトの森を蘇らせることはできるの?」
「……さあ。完全に枯れてしまっていないのなら、新しい木を育てることはできるはずから、無理ではないと思うけど……なんで?」

 ここで、ノイシュトバルトを解き放つなどと言えば彼がどんな顔をするかは目に見えている。では、例えばこんな言い方はどうだろう。
「私、アルファンネルに、フォルセティ=トロイエを会わせてあげたいと思ってる」


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